教会での礼拝とは

教会で礼拝するとは

2.「礼拝」と「教会」 ①「礼拝」

エスさまが「礼拝」について言っておられるところは一か所あります。
 
ヨハ4:21‐24
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
 
この後も弟子たちに、主は、異邦人が真の神を礼拝している姿を思い描くように話しておられます。
当時サマリア人は、ゲリジム山の神殿で、イスラエル人はエルサレム神殿で、礼拝をしていました。しかしそのどちらでもないところとは、どこでしょう。
パウロが次のように言っています。
 
Ⅰコリ3:16‐19
3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
 
Ⅰコリ6:19‐20
6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
 
コリ6:14‐18
6:14 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。
6:15 キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。
6:16 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
6:17 だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18 父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」
 
「救いはユダヤ人から来る」についても、パウロがこのように言っています。
 
ロマ9:4‐5
9:4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
 
9:5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
 
礼拝は元々、神を畏れ、御前にひれ伏し、いけにえをささげる、イスラエルのものです。
神に聖められて神に仕える者とされた祭司は、幕屋に必ず捧げものを携えて行って、礼拝をします。祭壇やあらゆる器具にも、血を振りかけて、清めます。それでイスラエルは主のものとされ保たれます。家畜を携えて行く人もそこに参加します。しかしそれは、動物の血によるものなので、人の良心を完全にすることは出来ませんでした。ところが今や、神の御子の血がささげられたことによって、私たちの良心も死んだ業から聖められて、神の御前に出て、永遠に礼拝できる者とされました。毎日神殿を家畜の血で清めて行う礼拝は中止され、霊から生まれた者(ヨハ3:5)は、キリストの血に聖められた私たちの体において、心に刻まれた律法を行い、私自身をいつも献げることが出来る者とされたのです。(ヘブ9章。)
新約時代にもユダヤ人の弟子たちはエルサレム神殿で礼拝をしていますが、それは、「自由(キリストに属する者)にされた」「ユダヤ人」として、行っています。そして彼らは神の約束の実現される日を楽しみに待ち望んでいます(使徒26:6-7)。なぜならキリストの復活によって、死んだ者も生きている者もよみがえり、旧約時代にその祝福を垣間見た約束の地と真の神殿礼拝も実現するからです。
しかし、主は、近付きつつある最も素晴らしい「神の国」が、「すでにあなたたちの間にある」(ルカ17:21、6:20、11:20等)と言われます。キリストによって悪霊を追い出していただき完全にされた私たちは、既に神の国を現しています。イスラエルのものである安息日や神殿礼拝は将来実現し、その後は、神殿も太陽もない完全な神の栄光に照らされる国になります、そのことを、律法を完成されたキリスト者の礼拝は、その体において表しているのです(Ⅰコリ6:20)。
 
「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。これは、ユダヤ人としてお生まれになったイエスさまが、「エルサレム神殿での礼拝」や「律法」を否定しているのではありません。イエスさまは「神殿を汚してはいけない」(マル11:17他)「律法とは神を愛し、隣人とを愛することである」(マル12:29‐31他)と言われているのであり、そのどちらをも、イエス様ご自身において、完成されたのです(ヨハ2:19、マタ5:17)。モーセも、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にある」(申30:14)と言っています。これは信仰の言葉なのです(ロマ10:8)。神の指で書かれた板が砕かれた後、モーセが律法を石に刻んだのは、律法が人によってではなく御子によって完成されるのであることを預言しているのです。そして私たちはキリストの真の完全な体に与って、完成された律法に従える者とされたのです。これが、内なる宮で行われる、主に仕えひれ伏す礼拝であり、神に喜ばれる生きたいけにえ(Ⅰぺト2:5、ロマ12:1)です。