教会での礼拝とは

教会で礼拝するとは

✡女性の立場について

Ⅰテモテ2:11‐15より。
「女性」とはほとんどが「婦人」の意味で、エバも初めからアダムのパートナーとして創られています。
11「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。」
これは恵みです。
12「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」
創造の御業の順序に基づいて言われています。すなわちこれについては、神の意図があります。人の考えは優先しません。
13「なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。」
これは秩序です。
14「しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」
アダムの罪が全人類に及んだのと同じように、女がサタンに騙されて罪を犯すという性質は全女性に及んだと考えて慎みを持つべきだということだと考えます。
15「婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」
この「子を産むことによって」ということについては、「本来の女性の役目をきちんと引き受けることは神の目にかなう良いことである」ということを言っていると考えます。
しかしパウロは独身であることを勧めているのですから、女性が「婦人」にならないことも認められていることになります。パウロが独身女性をどういう位置に置いていたのかは分かりませんが、妻にしかできないことが言われている以外の個所では「婦人」と同じ立場で考えるしかないでしょうか。
 
Ⅰコリ14:33‐36より。
33「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、」
混乱はサタンの分野です。キリスト者は神の秩序に同意しており、逆らいません。
34「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。」
アダムとエバに成った秩序(創3:16「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」)によっています。
私はその意味を理解して、受け入れています。
そして感情を抑えて女性の立場について考えていますが、「
婦人たちは、教会では黙っていなさい」の部分を、パウロやペトロが同じ手紙で書いている男性についての教えを守っていない男性たちが、紙に書いた掟のように切り取って、妻たちに教えているということがありました。教会とは、そういうことが普通に起こるところなのです。
35「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」
 
ここでⅠぺト3:1-4をはさみますが、そこにはこうあります。
3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。
3:2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
3:3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。
3:4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
私には夫がありませんから、ペトロの言っていることはよく理解できますし、心から同意します。その通りです。自分がまず神に従っていること、神の御前に自分をおささげしていることが一番大事なことです。
しかし、夫婦の関係によっては、これが大変な苦痛を伴う試練である場合があります。教会に相談しようにも、教会の指導的立場にいる男性陣に聖書を理解する力がありませんから、妻は押しつぶされてしまいます。
 
ところが、コリントの次の個所
36「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。」
によると、コリント教会の女性たちが、神からいただいた啓示をやかましいほどに語っていたのではないかと思われます。
この時代、教会には、偶像礼拝から立ち帰って集まっていた女性たちがたくさんいたことでしょう。しかし、反省はしていたとしても自分を嫌って捨て切っていないと、以前の性質が自分の中にそのまま残っているので、彼女たちの中で目立っていた人の場合は、派手さを好み静かにできなかった様子が想像できます。しかしパウロはそういう女性たちに苛立って「静かにしていなさい」と言ったのではなく、聖書に基づいて教えているので、理解すべきことには同意すべきなのです。
 
「女性が男性の上に立って教えない」というのは使徒パウロの命令でもあり女性を守ることでもあると思います。リーダーとしての男性は教会での責任を負うべきです。これは役割分担です。
しかし、一つの霊からいただいた賜物を皆が分かち合うのが教会です。各自の賜物が生かされて、教会が造り上げられることに、女性は、御言葉に従う態度と行いによってかかわるということになると思います。静かに全く従順に学び主に従っている女性から、男性が何も学べなくても、それは女性の責任ではありません。女性は教えたり語ったりしなくてもよいのです。(ヤコ3:1「
わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」)主は、「あなたは、わたしに従いなさい(ヨハ21:22)」と言ってくださるでしょう。
女性は御言葉に従えば、必然的に謙虚に低くなる者とされています。抑圧されても、たとえ人に殺されたとしても、主の教えに従えることが何よりもの恵みであり報いです。神の国と復活は真実だからです。
弱い立場にいる人ほど、主の近くで、その足跡に従うことが出来るのです。
マタ5:5「柔和な人々は、幸いである。」(柔和=温順。詩編37:11では「抑圧されている者」「へりくだる者」「忍耐する者」等と解されている。)
イザ53:7「
苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
ぺト2:21「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」