教会での礼拝とは

教会で礼拝するとは

1.教会での礼拝とは礼拝式のことである。

私は実は「教会での礼拝はどのようにすればよいのか」の答えを得たくて、礼拝について聖書から考え、それに基づいて、主に受け入れていただける礼拝のための「聖書的な礼拝式次第」を作ろうと思っていたのですが、結局そこにはつながりませんでした。
一人で御言葉の黙想をしている時がとても幸いなのは、頭の中が、まるで今神の国を見ているかのような状態だからです。そういう中で私が教会で行おうと考えていた礼拝は、天上でなされるような、一つの(普遍的な)礼拝だったのです。
しかし私も地上の人間なのですから、それは無理です。そして期待とは反対に、教会でそのような礼拝は出来ないことに、やっと気付きました。「私たちの中に神の国はある」けれども、その「私たちはまだ滅びる体の中にいる」のです。神によっては全てがすでに完成しているけれども、私はまだその完成に向かって歩いています。(この歩みが「信仰」です。)
教会で、真の礼拝が実現するのは、本当の将来、主の下に帰ったイスラエルと異邦人すべての主の民によって、礼拝される時です。その時民の心には、神の指で記された律法が与えられているので、誰も教えたり教えられたりしません(エレ31:34)。ただ神を賛美し神に仕えるのです。
復活のイエスさまに弟子たちが「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねてしまったのは(使徒1:6)、復活のイエスさまと過ごしていたのでそういう幻を見やすくなっていたのではないかと思います。彼らはとても幸せだったのです。しかし「まだ」でした。異邦人のための計画がありました。それでも彼らの希望はもう見えている物を見ていたゆえに生き生きとしていたので、初めの教会は特別でした(使徒2章)。そこに異邦人が加えられ初め、人々の集まりはまた、あの、イスラエルのようになっていくのですが、
新約聖書に一か所だけ、「教会で礼拝」している様子を垣間見ることが出来る場面があります。
 
使徒13:1‐3
13:1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。
13:2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
13:3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
 
預言者や教師たちが共に断食の祈りをして、誰が宣教に遣わされるのかを主に尋ねていた時です。
そこでは、彼らの一つとなった思いと静かな祈りの言葉だけが、神と交流していたのでしょう。
「礼拝」という言葉は、ヘブル語でもギリシャ語でも「ひれ伏す」「仕える」「働く」「拝む」という意味です。その根本はとても個人的で、「神と私」の繋がりです。ですから理想の教会とは、弟子たちの心が一つになった「神と私たち」の繋がりです。
 
新約聖書に書かれている教会の集まりの中には、現在の私たちがイメージするような「教会での礼拝」のようなものはなく、そもそも「教会/集まり」という言葉と「礼拝」という言葉は、同時には出てこないのです。
ですから、「礼拝」と「教会」は、分けて考える必要があると思います。
「教会で礼拝する」ことについては、
「まだ完成されていない教会(人々の集まり)では、皆が一緒に、主イエス・キリストのゆえに霊と真による礼拝が〈既に〉出来るようにされているのだけれども、人の側では〈まだ〉出来ない」ことは明らかです(イスラエルの民から教訓を得ているように(Ⅰコリ10:11))。
ですから、教会で礼拝をするとすれば、それは「礼拝式」であり「聖餐式」にならざるを得ない。だから教会史の中で、今のような形になって来たのではないか。これをする意味は、人々に向かって聖書の言葉が語られるためであり、人々に「主の死を告げ知らせる」ため(Ⅰコリ11:26)であり、御言葉の宣教のためなのです。そしてもし教会に未信者が誰もいなくても、そこでは励まし合いと成長がなければ意味がありません。

2.「礼拝」と「教会」 ①「礼拝」

エスさまが「礼拝」について言っておられるところは一か所あります。
 
ヨハ4:21‐24
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
 
この後も弟子たちに、主は、異邦人が真の神を礼拝している姿を思い描くように話しておられます。
当時サマリア人は、ゲリジム山の神殿で、イスラエル人はエルサレム神殿で、礼拝をしていました。しかしそのどちらでもないところとは、どこでしょう。
パウロが次のように言っています。
 
Ⅰコリ3:16‐19
3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
 
Ⅰコリ6:19‐20
6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
 
コリ6:14‐18
6:14 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。
6:15 キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。
6:16 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
6:17 だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18 父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」
 
「救いはユダヤ人から来る」についても、パウロがこのように言っています。
 
ロマ9:4‐5
9:4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
 
9:5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
 
礼拝は元々、神を畏れ、御前にひれ伏し、いけにえをささげる、イスラエルのものです。
神に聖められて神に仕える者とされた祭司は、幕屋に必ず捧げものを携えて行って、礼拝をします。祭壇やあらゆる器具にも、血を振りかけて、清めます。それでイスラエルは主のものとされ保たれます。家畜を携えて行く人もそこに参加します。しかしそれは、動物の血によるものなので、人の良心を完全にすることは出来ませんでした。ところが今や、神の御子の血がささげられたことによって、私たちの良心も死んだ業から聖められて、神の御前に出て、永遠に礼拝できる者とされました。毎日神殿を家畜の血で清めて行う礼拝は中止され、霊から生まれた者(ヨハ3:5)は、キリストの血に聖められた私たちの体において、心に刻まれた律法を行い、私自身をいつも献げることが出来る者とされたのです。(ヘブ9章。)
新約時代にもユダヤ人の弟子たちはエルサレム神殿で礼拝をしていますが、それは、「自由(キリストに属する者)にされた」「ユダヤ人」として、行っています。そして彼らは神の約束の実現される日を楽しみに待ち望んでいます(使徒26:6-7)。なぜならキリストの復活によって、死んだ者も生きている者もよみがえり、旧約時代にその祝福を垣間見た約束の地と真の神殿礼拝も実現するからです。
しかし、主は、近付きつつある最も素晴らしい「神の国」が、「すでにあなたたちの間にある」(ルカ17:21、6:20、11:20等)と言われます。キリストによって悪霊を追い出していただき完全にされた私たちは、既に神の国を現しています。イスラエルのものである安息日や神殿礼拝は将来実現し、その後は、神殿も太陽もない完全な神の栄光に照らされる国になります、そのことを、律法を完成されたキリスト者の礼拝は、その体において表しているのです(Ⅰコリ6:20)。
 
「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。これは、ユダヤ人としてお生まれになったイエスさまが、「エルサレム神殿での礼拝」や「律法」を否定しているのではありません。イエスさまは「神殿を汚してはいけない」(マル11:17他)「律法とは神を愛し、隣人とを愛することである」(マル12:29‐31他)と言われているのであり、そのどちらをも、イエス様ご自身において、完成されたのです(ヨハ2:19、マタ5:17)。モーセも、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にある」(申30:14)と言っています。これは信仰の言葉なのです(ロマ10:8)。神の指で書かれた板が砕かれた後、モーセが律法を石に刻んだのは、律法が人によってではなく御子によって完成されるのであることを預言しているのです。そして私たちはキリストの真の完全な体に与って、完成された律法に従える者とされたのです。これが、内なる宮で行われる、主に仕えひれ伏す礼拝であり、神に喜ばれる生きたいけにえ(Ⅰぺト2:5、ロマ12:1)です。

2.「礼拝」と「教会」 ②「教会」

次に、イエスさまが「教会」について言っているところは2か所あります。
 
マタ16:18
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
 
マタ18:15‐20
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 
まず、教会とは、キリストの犠牲の上に立てられたのであり、その上に集う人々は、キリストの死に与り自分を捨てることによって、一つになる人々です。この完成形は、世とは関係ありません。ですから、個々の教会とは、将来一つとなる教会(神の民)の姿を描きながら、それに近付こうとする人々が、頭と土台であるキリストの内で、霊の賜物を互いのために生かし愛し合い共に祈る集まりです。
また、「教会」に対応するものは「イスラエル」です。あの、色々な人たちです。それで、二人または三人の証人を呼ぶ時には、「教会」という言葉が使われています(申19:15)。
忠告しなければならないことについてはレビ19:17で、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」と言われています。戒めなければ、自分に対して罪を犯した兄弟を憎んでしまって、彼の罪を負うことになるからです。そのように教会とは、普段の生活で礼拝をしている、実に様々な神の民が、共に食事し愛し合い分かち合い戒め合い、学び励まし合うところです。聖霊の力によって集められた、御言葉を証しする弟子は、裁判さえできる者であります(Ⅰコリ6:2‐3)。イスラエル共同体は、あらゆることにおいて教会への見本となり、警告しています(Ⅰコリ10:6,11)。
 
イスラエル安息日に神殿で礼拝をしていたことを真似て、教会は日曜日に教会で礼拝をしているとすれば、それは対応させるものが、ずれています。
「神殿」は礼拝をするところ、祭司が神に仕えるところです。私たちはそれを真似て、自分の内なる神殿で神の前にひれ伏します。そこが、礼拝し、祈る、聖なる場所です。
「神殿」に対応するのは、私たちの「体」です。幕屋に神の御臨在と律法があったように、私たちは自分の体で、キリストの光と御言葉を輝かすのです(Ⅰコリ6:20)。そしてその一つ一つが、キリストの体の部分となります。それが目指すべき教会です。
また、安息日に礼拝を守るのは、イスラエルの律法であり、イスラエルの祝福です。今は、キリストがささげものとなって、完全に律法を完成してくださったので、ユダヤ人も異邦人も、神の前に何も持って行かずに、自分をささげる礼拝が出来ます。これが自分の体において、霊によって真実に行われる礼拝です。
「教会」は、礼拝をする場所ではなく、「集まり」ですから、「教会」とは「そこに集う人々」のことです。

では、教会とはどういうところなのか、何をどのようにしていたのか、新約聖書から「集会」の様子を調べてみましょう。
 
毎日
使徒2:46そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
 
これは、教会出来立ての時、イエスさまがおられるかのように聖霊をいただいていた時の様子です。イエスさまを覚えていただく食事は、現在のように形式的なものではなく、イエスさまの言葉や様子や仕草を思い出しながらの、驚きの体験やささいな笑い話やイエスさまのユーモアが語られていたのだろうなと想像します。
 
安息日(おもにユダヤ人への伝道)
使徒13:44次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。(ピシディア州のアンティオキアで)
 
使徒16:13安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。(フィリピで)
 
使徒17:2パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、(テサロニケの会堂で)
 
これは律法に基づいていて、週に一度です。内容は伝道です。
現在は「安息日を守りなさい」という律法が完成したことによって、律法を完成なさった主が復活なさった日曜日に変えて行われるようになったとも考えられるかと思いますが、聖書に、集まる曜日についての説明はありません。
 
日曜日
使徒20:7週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
 
Ⅰコリ16:2わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。
 
これによって「日曜日だけ、決まって」集まっていたのかどうかは分かりません。献金については、週の初めにまず各自手元に収入を分けておくということで、そのために日曜日に集まるということではないでしょう。
 
食事のために
Ⅰコリ11:20それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
 
Ⅰコリ11:33わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
 
主の晩餐は「式」としてではなく食事でした。それは、具体的にはマナを食べて毎日生きていたように、主の御言葉によって生きていることを確認するものであり、「主」の晩餐で示されているのは、そのとき読まれる聖句にあるように、主の犠牲をいただく食事です。旧約時代においては、礼拝での食事はささげものであり「和解」の食事でした。私たちにはキリストが、犠牲となり、神と和解させてくださいました。それでキリストは「神を愛し隣人を愛しなさい」と言われます。私たちの食事は、食事そのもの、食材や、関わった人、自然の恵み、神の恵み等に感謝すること以上に、御言葉の糧、具体的に主イエス・キリストの体をいただいて新しくされて生きていることを覚えているためのものです。そのための時が、通常は日に3度、あるのです。その中の「晩餐」が、主の晩餐とされていました。決まった曜日だったのか、週に何日あったのか等は分かりません。
集まりの重要な目的は、主を覚えての食事と、愛の分かち合い。「互いに待ち合わせなさい」というところからは、皆が一緒に集まれる時をその都度決めるというように受け取れます。
 
家で
使徒18:7パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。
 
ロマ16:5また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。
 
Ⅰコリ16:19アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。
 
フィレ1:2姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
 
各教会に、家を提供する賜物が与えられた人がいました。そこに誰でもいつでも訪問し、食事し、霊に導かれた二人または三人が集まれば、祈りや分かち合いの時となったことでしょう。
 
造り上げるため
Ⅰコリ14:26兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
 
信徒は集まったとき、賛美の歌を歌い、教え、啓示を語っていました。それは、集まった人が造り上げられるためです。この時は特にコリント教会で、無秩序に自分を誇るように異言が語られていて解釈もされずうるさかったという問題がありましたが、それを省いても私たちの集まりに十分当てはめて考えることが出来ます。教会は、賛美し、教え、啓示を語ることによって、共に成長するための集まりです。
続く31節「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい」というのは、預言の言葉は現在は聖書にまとめられているので、一人一人が皆、御言葉を聖霊に教えていただけるように集中することであると思います。互いに学び励まされ、御言葉を理解して成長するために集まるのです。
 
教会は、キリストを頭とする主の体です。その構成員は各々の賜物を用いて互いの益となり造り上げられて行きます。
 
エフェ4:13‐16
4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
 
Ⅱぺト3:18
わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。
 
ヨハ17:3
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
 
教会は、エルサレムで約束のものを待っていた弟子たちに降った聖霊の動きによって、各地に立てられました。その時礼拝に来ていてその異言を聞いた色々な言語の人々が、持って帰ったのです(使徒2:5‐12)。そのように、聖霊によって建てられたのが本当の教会です。
そこには、霊に引き寄せられるように、真の礼拝者が集まります。そして啓示された御言葉を互いに教え理解し、神に育てられて成長し、主の民らは一つの霊に結ばれて、聖なる神殿となります(エフェ2:11‐22)。

2.「礼拝」と「教会」 ③「礼拝」と「教会」

そこで私は、「礼拝」と「教会」の関係について、次のように考えます。
まず、霊と真によって父を礼拝する「真の礼拝者」が立てられます。その人は、自分を主へのささげものとして焼き尽くし、主イエス・キリストに従い、自分の体で主の栄光を現しています。
「教会の礼拝」というのは、主の御名(霊)によって集められた二人以上の礼拝者が、いつでもどこででも、共に献身して祈る時に限って、成り立つと思います。使徒13:1‐3のような場合です。
「礼拝者」がいるところに、霊によって、実に様々な人が集められてきます。それが「教会」です。
 
「礼拝者」に教えられて「弟子(礼拝者)」たちが育ちます。弟子にとっては、礼拝とは毎日の信仰生活ですから、そこでいただいた糧を持ち寄って、分かち合い、さらに成長します。そして心を一つにして祈ります。聖められて献身した礼拝者が複数名いれば、主を賛美し教え励まし合い、キリストの体として一つに造り上げられ続けるための学びと交わりが可能です。これが本来在るべき教会です。
 
パウロたちがそのように教えているのは、現実にはそうでないからです。「だから無理」なのではなく、「教会」は、キリストの犠牲の上に立てられていてキリストの体の一部であることが教えられ続けるべきであり、キリストがすでに勝利なさって神の国は実現しているのだから、その栄光を現す教会は、失望せず、善い業に励むのみ。それは神の恵みに答えて、どうすれば神に喜ばれるかを必死で考えて行うことです。教会は常に訓練されていなければならないのです。目標が確実だからです。
 
現実の教会は、信徒が全員礼拝生活者なのでも弟子なのでもないし、刈り入れの時までは、教会には毒麦が混ざっています。刈る天使たちは知っていますが、地上でははっきり断定できませんし人には裁けません。分かるとすれば、ただ本人が、裁きの中にいるので分かっているかもしれません。グレーゾーン(二心)の人はたくさんいるでしょう。肉のクリスチャンもいるし、求道中の人もいるし、自分の目的がある人もいます。見分けも、付いたり付かなかったりするのです。それぞれに、信仰的課題、主の御計画に沿ったふさわしい時があると思います。一歩ずつ成長できるように皆で祈り合うのです。
全員が主につながっている家族として親友のように交流できていてお互いに心を配り注意し合えるのが本来なのですが、実際はそうはいかず、表面的になっています。だからアナニヤとサフィラのようなことは起こりません。そのかわり、教会で一つになる礼拝は出来ません。
しかし、思いを一つにするためには努めるべきです。一つになるものとされているからです。(ヨハ17章、使徒2章,4章、ロマ12:5,6、Ⅰコリ1:10,6:17,10:17,12章、Ⅱコリ13:11、エフェ4:13、フィリ1:27,2:2、コロ3:15等。)
もし教会に霊の人がいれば、その人の祈りや行いから、霊と真実の礼拝を、見て学ぶことは出来るかもしれません。
いなければ、あるいは、居るのに賜物が見分けられず、弟子がないがしろにされているようであるなら、そこでは信徒が礼拝の真似事をしているだけです。霊の働きを見ることは出来ません。
ですからもし教会に霊の人がいるなら、必ず、その弟子である人がリードして、祈りをささげてから、主を賛美し、そこに会衆も加わり、共に賛美し、その人が教えていただいたことを聞かせてもらうのが良いと思います。その時に、礼拝するということについて、必ず、次のことが、知らされている必要があると思います。
 
ロマ12:1‐21
12:1自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
 
Ⅰペト2:5
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
 
霊をいただいてリードできる弟子が本当に一人もいない場合や、いてもそれが女性であり、信徒に男性がいる場合は、誰も教えず、共に、霊と知恵を求める祈りをし、愛を分かち合う集いであればよいと思います。皆が謙虚であれば、このような集いは可能であり、恵まれると思います。
 

神殿である自分の「体」で「霊と真による礼拝」をする「礼拝者」であることが、「地の塩」であることだと思います。そして「世の光」であるとは、世間に分かるような大きな働きをするという意味ではなく、自分の内で神の栄光を輝かせていることです。自分を神に喜ばれる生きた供え物にするとは、自分を焼き尽くして神に献げていることです。
神を愛し神に仕えることを本気で求めないので、「教会へ行くのが礼拝することだ」と簡単に考えてしまうのではないでしょうか。「日曜日」には「教会」へ行って「礼拝」をしなければならないと教えられてしまうと、その言葉の組み合わせ方が全く聖書的ではないので、果てしのない混乱の渦の中にはまってしまうこともあると思います。

聖なる神の家族である教会の要石キリストの上に土台となった使徒たちの上に、私たちは一人一人建てられます。そこで、神の言葉をどう聞くか(ルカ8:18)、どのように建てるかが(Ⅰコリ3:10)、一人一人の神への応答となります。そして建物が組み合わされて成長したものが、聖なる神殿となります。一人一人が建てられ組み合わされた教会では、互いの間でキリストの命令が実践されます。その働きによって、そこに神が宿ってくださいます。(エフェ2:14‐22)

✡女性の立場について

Ⅰテモテ2:11‐15より。
「女性」とはほとんどが「婦人」の意味で、エバも初めからアダムのパートナーとして創られています。
11「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。」
これは恵みです。
12「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」
創造の御業の順序に基づいて言われています。すなわちこれについては、神の意図があります。人の考えは優先しません。
13「なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。」
これは秩序です。
14「しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」
アダムの罪が全人類に及んだのと同じように、女がサタンに騙されて罪を犯すという性質は全女性に及んだと考えて慎みを持つべきだということだと考えます。
15「婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」
この「子を産むことによって」ということについては、「本来の女性の役目をきちんと引き受けることは神の目にかなう良いことである」ということを言っていると考えます。
しかしパウロは独身であることを勧めているのですから、女性が「婦人」にならないことも認められていることになります。パウロが独身女性をどういう位置に置いていたのかは分かりませんが、妻にしかできないことが言われている以外の個所では「婦人」と同じ立場で考えるしかないでしょうか。
 
Ⅰコリ14:33‐36より。
33「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、」
混乱はサタンの分野です。キリスト者は神の秩序に同意しており、逆らいません。
34「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。」
アダムとエバに成った秩序(創3:16「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」)によっています。
私はその意味を理解して、受け入れています。
そして感情を抑えて女性の立場について考えていますが、「
婦人たちは、教会では黙っていなさい」の部分を、パウロやペトロが同じ手紙で書いている男性についての教えを守っていない男性たちが、紙に書いた掟のように切り取って、妻たちに教えているということがありました。教会とは、そういうことが普通に起こるところなのです。
35「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」
 
ここでⅠぺト3:1-4をはさみますが、そこにはこうあります。
3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。
3:2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
3:3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。
3:4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
私には夫がありませんから、ペトロの言っていることはよく理解できますし、心から同意します。その通りです。自分がまず神に従っていること、神の御前に自分をおささげしていることが一番大事なことです。
しかし、夫婦の関係によっては、これが大変な苦痛を伴う試練である場合があります。教会に相談しようにも、教会の指導的立場にいる男性陣に聖書を理解する力がありませんから、妻は押しつぶされてしまいます。
 
ところが、コリントの次の個所
36「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。」
によると、コリント教会の女性たちが、神からいただいた啓示をやかましいほどに語っていたのではないかと思われます。
この時代、教会には、偶像礼拝から立ち帰って集まっていた女性たちがたくさんいたことでしょう。しかし、反省はしていたとしても自分を嫌って捨て切っていないと、以前の性質が自分の中にそのまま残っているので、彼女たちの中で目立っていた人の場合は、派手さを好み静かにできなかった様子が想像できます。しかしパウロはそういう女性たちに苛立って「静かにしていなさい」と言ったのではなく、聖書に基づいて教えているので、理解すべきことには同意すべきなのです。
 
「女性が男性の上に立って教えない」というのは使徒パウロの命令でもあり女性を守ることでもあると思います。リーダーとしての男性は教会での責任を負うべきです。これは役割分担です。
しかし、一つの霊からいただいた賜物を皆が分かち合うのが教会です。各自の賜物が生かされて、教会が造り上げられることに、女性は、御言葉に従う態度と行いによってかかわるということになると思います。静かに全く従順に学び主に従っている女性から、男性が何も学べなくても、それは女性の責任ではありません。女性は教えたり語ったりしなくてもよいのです。(ヤコ3:1「
わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」)主は、「あなたは、わたしに従いなさい(ヨハ21:22)」と言ってくださるでしょう。
女性は御言葉に従えば、必然的に謙虚に低くなる者とされています。抑圧されても、たとえ人に殺されたとしても、主の教えに従えることが何よりもの恵みであり報いです。神の国と復活は真実だからです。
弱い立場にいる人ほど、主の近くで、その足跡に従うことが出来るのです。
マタ5:5「柔和な人々は、幸いである。」(柔和=温順。詩編37:11では「抑圧されている者」「へりくだる者」「忍耐する者」等と解されている。)
イザ53:7「
苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
ぺト2:21「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」

✡「礼拝」の原語について

旧約聖書
 
①「シャカ」
・創22:5「アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」」
・出エ33:10「雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。」
など、166箇所で使われている言葉は「Shachahシャカ」という語で、
「身をかがめて」「地に伏して」「拝して」「拝み」「おじぎして」等と訳され、低くなる動作を伴っています。
例えば、
創世記「18:2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、」「24:26 彼はひざまずいて主を伏し拝み、」「24:52 アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。」「33:3 ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。」「37:9 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」」
出エジプト記「4:31 民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。」「12:27 こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。」「20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、」「34:8 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、」
詩編「5:8 しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。」「22:28 地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。」「66:4 全地はあなたに向かってひれ伏し/あなたをほめ歌い/御名をほめ歌います」と。」「99:5 我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。」「132:7 わたしたちは主のいます所に行き/御足を置かれる所に向かって伏し拝もう。」
 
②「アバード」
・出エ3:12「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」」
・申10:12「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、」
・詩100:2「喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。」
など、263箇所で使われている言葉は「abadアバード」という語で、
他には「耕す」「働く」「(奴隷として)使われる」等と訳されていて、力を尽くして働く意味があります。
例えば、
創世記「2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」「15:13 主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。」「29:18 ヤコブラケルを愛していたので、「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます」と言った。」「30:29 ヤコブは言った。「わたしがどんなにあなたのために尽くし、家畜の世話をしてきたかよくご存じのはずです。」「49:15 彼にはその土地が快く/好ましい休息の場となった。彼はそこで背をかがめて荷を担い/苦役の奴隷に身を落とす。」
出エジプト記「5:18 すぐに行って働け。わらは与えない。しかし、割り当てられた量のれんがは必ず仕上げよ。」」「6:5 わたしはまた、エジプト人奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。」「9:1 主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。」「13:5 主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない。」「20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、」
申命記「5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、」「6:13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」「10:12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、」「28:14 あなたは、今日わたしが命じるすべての言葉から離れて左右にそれ、他の神々に従い仕えてはならない。」「28:39 ぶどう畑を作って手を入れても、虫に実を食われてしまい、収穫はなく、ぶどう酒を飲むことはできない。」「28:47 あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので、」
詩編「2:11 畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。」「22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。」「72:11 すべての王が彼の前にひれ伏し/すべての国が彼に仕えますように。」「100:2 喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。」
 
他にも「ハーヴァー・かがむ、おじぎをする」「カーラ・ひれ伏す」「バーラフ・ひざまづく」などがあるそうです。
 
 
新約聖書
 
①「プロスクネオー」語源は「クネオー・接吻する」
・ヨハ4:24「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」の箇所の語で、54回使われていますが、そのほとんどは「拝む」「ひれ伏して」「拝し」と訳されていて、イエスさまに癒されるために走って来る人の態度として描かれています。
例えば、
マタイ福音書「2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」」「4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」」「8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。」「9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」」「14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエス拝んだ。」
黙示録「4:10 二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。」「5:14 四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。」「7:11 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、」「13:8 地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。」「15:4 主よ、だれがあなたの名を畏れず、/たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、/あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、/明らかになったからです。」」「19:4 そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」」
 
②「ラトレウオー」語源は「ラトリス・雇われた召使い」
・ピリ3:3「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。」で使われている語は21箇所あり、多くが「仕えて」と訳されています。
マタイ「4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」」
ルカ「2:37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、」
使徒言行録「7:7 更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』」「26:7 私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。」「27:23 わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、」
ロマ「1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、」
へブル「9:9 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。」「9:14 まして、永遠の"霊"によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」「12:28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」「13:10 わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。」
黙「7:15 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。」「22:3 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、」
など。
 
③「ラトレイア」語源は「レイトゥールゴス・国家(公共)に奉仕する、公の務を果す」
5箇所で使われています。
ヨハ「16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」
ロマ「9:4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。」「12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
ヘブ「9:1 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。」「9:6 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。」
 
(「仕える」という意味の言葉は、他にもいくつかあります。)
 
まとめると、
旧約:
「シャカ」…………礼拝する、ひれ伏す、拝む、
「アバード」………仕える、働く、耕す、奴隷とされる、
新約:
「プロスクネオー」語源「接吻する」…………礼拝する、拝む、ひれ伏す、
「ラトレウオー」語源「雇われた召使い」……仕える、礼拝する、
「ラトレイア」語源「奉仕する」「公の職務を果たす」…奉仕する、礼拝する、