教会での礼拝とは

教会で礼拝するとは

2.「礼拝」と「教会」 ②「教会」

次に、イエスさまが「教会」について言っているところは2か所あります。
 
マタ16:18
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
 
マタ18:15‐20
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 
まず、教会とは、キリストの犠牲の上に立てられたのであり、その上に集う人々は、キリストの死に与り自分を捨てることによって、一つになる人々です。この完成形は、世とは関係ありません。ですから、個々の教会とは、将来一つとなる教会(神の民)の姿を描きながら、それに近付こうとする人々が、頭と土台であるキリストの内で、霊の賜物を互いのために生かし愛し合い共に祈る集まりです。
また、「教会」に対応するものは「イスラエル」です。あの、色々な人たちです。それで、二人または三人の証人を呼ぶ時には、「教会」という言葉が使われています(申19:15)。
忠告しなければならないことについてはレビ19:17で、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」と言われています。戒めなければ、自分に対して罪を犯した兄弟を憎んでしまって、彼の罪を負うことになるからです。そのように教会とは、普段の生活で礼拝をしている、実に様々な神の民が、共に食事し愛し合い分かち合い戒め合い、学び励まし合うところです。聖霊の力によって集められた、御言葉を証しする弟子は、裁判さえできる者であります(Ⅰコリ6:2‐3)。イスラエル共同体は、あらゆることにおいて教会への見本となり、警告しています(Ⅰコリ10:6,11)。
 
イスラエル安息日に神殿で礼拝をしていたことを真似て、教会は日曜日に教会で礼拝をしているとすれば、それは対応させるものが、ずれています。
「神殿」は礼拝をするところ、祭司が神に仕えるところです。私たちはそれを真似て、自分の内なる神殿で神の前にひれ伏します。そこが、礼拝し、祈る、聖なる場所です。
「神殿」に対応するのは、私たちの「体」です。幕屋に神の御臨在と律法があったように、私たちは自分の体で、キリストの光と御言葉を輝かすのです(Ⅰコリ6:20)。そしてその一つ一つが、キリストの体の部分となります。それが目指すべき教会です。
また、安息日に礼拝を守るのは、イスラエルの律法であり、イスラエルの祝福です。今は、キリストがささげものとなって、完全に律法を完成してくださったので、ユダヤ人も異邦人も、神の前に何も持って行かずに、自分をささげる礼拝が出来ます。これが自分の体において、霊によって真実に行われる礼拝です。
「教会」は、礼拝をする場所ではなく、「集まり」ですから、「教会」とは「そこに集う人々」のことです。

では、教会とはどういうところなのか、何をどのようにしていたのか、新約聖書から「集会」の様子を調べてみましょう。
 
毎日
使徒2:46そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
 
これは、教会出来立ての時、イエスさまがおられるかのように聖霊をいただいていた時の様子です。イエスさまを覚えていただく食事は、現在のように形式的なものではなく、イエスさまの言葉や様子や仕草を思い出しながらの、驚きの体験やささいな笑い話やイエスさまのユーモアが語られていたのだろうなと想像します。
 
安息日(おもにユダヤ人への伝道)
使徒13:44次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。(ピシディア州のアンティオキアで)
 
使徒16:13安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。(フィリピで)
 
使徒17:2パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、(テサロニケの会堂で)
 
これは律法に基づいていて、週に一度です。内容は伝道です。
現在は「安息日を守りなさい」という律法が完成したことによって、律法を完成なさった主が復活なさった日曜日に変えて行われるようになったとも考えられるかと思いますが、聖書に、集まる曜日についての説明はありません。
 
日曜日
使徒20:7週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
 
Ⅰコリ16:2わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。
 
これによって「日曜日だけ、決まって」集まっていたのかどうかは分かりません。献金については、週の初めにまず各自手元に収入を分けておくということで、そのために日曜日に集まるということではないでしょう。
 
食事のために
Ⅰコリ11:20それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
 
Ⅰコリ11:33わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
 
主の晩餐は「式」としてではなく食事でした。それは、具体的にはマナを食べて毎日生きていたように、主の御言葉によって生きていることを確認するものであり、「主」の晩餐で示されているのは、そのとき読まれる聖句にあるように、主の犠牲をいただく食事です。旧約時代においては、礼拝での食事はささげものであり「和解」の食事でした。私たちにはキリストが、犠牲となり、神と和解させてくださいました。それでキリストは「神を愛し隣人を愛しなさい」と言われます。私たちの食事は、食事そのもの、食材や、関わった人、自然の恵み、神の恵み等に感謝すること以上に、御言葉の糧、具体的に主イエス・キリストの体をいただいて新しくされて生きていることを覚えているためのものです。そのための時が、通常は日に3度、あるのです。その中の「晩餐」が、主の晩餐とされていました。決まった曜日だったのか、週に何日あったのか等は分かりません。
集まりの重要な目的は、主を覚えての食事と、愛の分かち合い。「互いに待ち合わせなさい」というところからは、皆が一緒に集まれる時をその都度決めるというように受け取れます。
 
家で
使徒18:7パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。
 
ロマ16:5また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。
 
Ⅰコリ16:19アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。
 
フィレ1:2姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
 
各教会に、家を提供する賜物が与えられた人がいました。そこに誰でもいつでも訪問し、食事し、霊に導かれた二人または三人が集まれば、祈りや分かち合いの時となったことでしょう。
 
造り上げるため
Ⅰコリ14:26兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
 
信徒は集まったとき、賛美の歌を歌い、教え、啓示を語っていました。それは、集まった人が造り上げられるためです。この時は特にコリント教会で、無秩序に自分を誇るように異言が語られていて解釈もされずうるさかったという問題がありましたが、それを省いても私たちの集まりに十分当てはめて考えることが出来ます。教会は、賛美し、教え、啓示を語ることによって、共に成長するための集まりです。
続く31節「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい」というのは、預言の言葉は現在は聖書にまとめられているので、一人一人が皆、御言葉を聖霊に教えていただけるように集中することであると思います。互いに学び励まされ、御言葉を理解して成長するために集まるのです。
 
教会は、キリストを頭とする主の体です。その構成員は各々の賜物を用いて互いの益となり造り上げられて行きます。
 
エフェ4:13‐16
4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
 
Ⅱぺト3:18
わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。
 
ヨハ17:3
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
 
教会は、エルサレムで約束のものを待っていた弟子たちに降った聖霊の動きによって、各地に立てられました。その時礼拝に来ていてその異言を聞いた色々な言語の人々が、持って帰ったのです(使徒2:5‐12)。そのように、聖霊によって建てられたのが本当の教会です。
そこには、霊に引き寄せられるように、真の礼拝者が集まります。そして啓示された御言葉を互いに教え理解し、神に育てられて成長し、主の民らは一つの霊に結ばれて、聖なる神殿となります(エフェ2:11‐22)。