教会での礼拝とは

教会で礼拝するとは

2.「礼拝」と「教会」 ③「礼拝」と「教会」

そこで私は、「礼拝」と「教会」の関係について、次のように考えます。
まず、霊と真によって父を礼拝する「真の礼拝者」が立てられます。その人は、自分を主へのささげものとして焼き尽くし、主イエス・キリストに従い、自分の体で主の栄光を現しています。
「教会の礼拝」というのは、主の御名(霊)によって集められた二人以上の礼拝者が、いつでもどこででも、共に献身して祈る時に限って、成り立つと思います。使徒13:1‐3のような場合です。
「礼拝者」がいるところに、霊によって、実に様々な人が集められてきます。それが「教会」です。
 
「礼拝者」に教えられて「弟子(礼拝者)」たちが育ちます。弟子にとっては、礼拝とは毎日の信仰生活ですから、そこでいただいた糧を持ち寄って、分かち合い、さらに成長します。そして心を一つにして祈ります。聖められて献身した礼拝者が複数名いれば、主を賛美し教え励まし合い、キリストの体として一つに造り上げられ続けるための学びと交わりが可能です。これが本来在るべき教会です。
 
パウロたちがそのように教えているのは、現実にはそうでないからです。「だから無理」なのではなく、「教会」は、キリストの犠牲の上に立てられていてキリストの体の一部であることが教えられ続けるべきであり、キリストがすでに勝利なさって神の国は実現しているのだから、その栄光を現す教会は、失望せず、善い業に励むのみ。それは神の恵みに答えて、どうすれば神に喜ばれるかを必死で考えて行うことです。教会は常に訓練されていなければならないのです。目標が確実だからです。
 
現実の教会は、信徒が全員礼拝生活者なのでも弟子なのでもないし、刈り入れの時までは、教会には毒麦が混ざっています。刈る天使たちは知っていますが、地上でははっきり断定できませんし人には裁けません。分かるとすれば、ただ本人が、裁きの中にいるので分かっているかもしれません。グレーゾーン(二心)の人はたくさんいるでしょう。肉のクリスチャンもいるし、求道中の人もいるし、自分の目的がある人もいます。見分けも、付いたり付かなかったりするのです。それぞれに、信仰的課題、主の御計画に沿ったふさわしい時があると思います。一歩ずつ成長できるように皆で祈り合うのです。
全員が主につながっている家族として親友のように交流できていてお互いに心を配り注意し合えるのが本来なのですが、実際はそうはいかず、表面的になっています。だからアナニヤとサフィラのようなことは起こりません。そのかわり、教会で一つになる礼拝は出来ません。
しかし、思いを一つにするためには努めるべきです。一つになるものとされているからです。(ヨハ17章、使徒2章,4章、ロマ12:5,6、Ⅰコリ1:10,6:17,10:17,12章、Ⅱコリ13:11、エフェ4:13、フィリ1:27,2:2、コロ3:15等。)
もし教会に霊の人がいれば、その人の祈りや行いから、霊と真実の礼拝を、見て学ぶことは出来るかもしれません。
いなければ、あるいは、居るのに賜物が見分けられず、弟子がないがしろにされているようであるなら、そこでは信徒が礼拝の真似事をしているだけです。霊の働きを見ることは出来ません。
ですからもし教会に霊の人がいるなら、必ず、その弟子である人がリードして、祈りをささげてから、主を賛美し、そこに会衆も加わり、共に賛美し、その人が教えていただいたことを聞かせてもらうのが良いと思います。その時に、礼拝するということについて、必ず、次のことが、知らされている必要があると思います。
 
ロマ12:1‐21
12:1自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
 
Ⅰペト2:5
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
 
霊をいただいてリードできる弟子が本当に一人もいない場合や、いてもそれが女性であり、信徒に男性がいる場合は、誰も教えず、共に、霊と知恵を求める祈りをし、愛を分かち合う集いであればよいと思います。皆が謙虚であれば、このような集いは可能であり、恵まれると思います。
 

神殿である自分の「体」で「霊と真による礼拝」をする「礼拝者」であることが、「地の塩」であることだと思います。そして「世の光」であるとは、世間に分かるような大きな働きをするという意味ではなく、自分の内で神の栄光を輝かせていることです。自分を神に喜ばれる生きた供え物にするとは、自分を焼き尽くして神に献げていることです。
神を愛し神に仕えることを本気で求めないので、「教会へ行くのが礼拝することだ」と簡単に考えてしまうのではないでしょうか。「日曜日」には「教会」へ行って「礼拝」をしなければならないと教えられてしまうと、その言葉の組み合わせ方が全く聖書的ではないので、果てしのない混乱の渦の中にはまってしまうこともあると思います。

聖なる神の家族である教会の要石キリストの上に土台となった使徒たちの上に、私たちは一人一人建てられます。そこで、神の言葉をどう聞くか(ルカ8:18)、どのように建てるかが(Ⅰコリ3:10)、一人一人の神への応答となります。そして建物が組み合わされて成長したものが、聖なる神殿となります。一人一人が建てられ組み合わされた教会では、互いの間でキリストの命令が実践されます。その働きによって、そこに神が宿ってくださいます。(エフェ2:14‐22)